資本主義の実態

資源の最適配分を考えるのが経営者であり資本家。ブルジョアジープロレタリアートの対立はあれど、資本家は必要な仕事だし、それなりにフェアな対価を得ている。

 

通りを歩いていて車を見ていていつも思う。もとは地面や地中に無作為に点在していた素材を適切に組み立てるとめっちゃ便利な乗り物になる。すごすぎ。

石の塊が建物になって人が中で便利に暮らせる。人間にとって無意味だったものを再構成して意味のあるものにする。そしてそれを完璧な形でうまくやるのが経営であり資本家の仕事である。

思えば経営とは、イデア界との交信である。何をするにも完璧な形がある。私は理性主義者だから理性の力でイデア界に繋がれると思っている。つまり何事も良いものを思いつきたければよく考えろということだ。皮肉にもこれは現実社会で事実だと証明されているように見える。自分が思いつくようなものは他の誰かがすでに思いついている。熟慮すればだれでもイデア界にアクセスでき、完璧な、あるいはそれに近いものを思いつくからだ。これがアイデア自体に価値がないとされる所以である。理性は神によって平等に与えられている。これは素晴らしいことだが、こと現実社会で実績をあげるとなると、他の人間よりうまく他人に貢献する必要があるから平等性のあることに価値はなく、イデア界へのアクセスはただの前提となる。

 

資本家は責任を負っている。ある土地を買い占めて何か店を出すとき、その土地を利用したかった他の資本家の機会を奪うことになる。そのような状態で価値のない事業をすれば、社会にとって害悪でしかないから資本主義から追い出されるのは自明である。労働者の個人においても同じことが言える。労働者も自分という資本を持っており、誰かに雇われれば他の労働者の枠を奪っていることになる。にもかかわらず枠を奪われた労働者より良い仕事をしなければ、社会にとって害悪であり、資本主義からなんらか罰を受けるのは必至だ。よってどのような場合であっても資本主義の成員となるのならば責任が伴う。

 

この責任を放棄した先に待つのは資本主義における貧困である。